「契約書に書いてないから」と傍若無人の振る舞いをする中国のビジネスパーソンを見かけることがある。何かトラブルを起こしても、逆切れしてそう答えるのだ。契約書からして、そもそも日本のものとは違う。
 中国だけでなく、香港、シンガポールなど、私が住んでいたアジアの国々は、仕事を請ける時は、真っ先に「ギャラはいくらか」「いつ支払われるのか」を確認して、契約書を交わす。これはとても合理的だ。だが、契約書に書かれているのは、そういったことだけではない。
 以前、私が勤めていた日本企業がシンガポールに進出した時のことである。現地の企業と提携して、マレーシア、中国、ベトナムなどの工場での商品の生産を始めた。シンガポールにいた私は、現地の専門家のサポート役として企業の合弁や提携に関わる仕事を任された。主に、雇用契約書やオフィスの賃貸契約書といった書類作成の手伝いや翻訳だ。
 そこでは、何から何まで細かい契約書が交わされる。その内容は本当に細かく、「○○の場合は○○になる」とあらゆるケースが想定されていて、その対応が書かれている。小さい字でびっしりと書かれた分厚い契約書は、まるで辞典のようだ。
 そこまで契約書に記載する理由は、「契約書に書かれてないから」という言い訳を認めないため。最初は、なぜそこまでする必要があるのか分からなかったが、ある中国の工場を訪問した時に理解できた。
 その工場の食堂は、ランチ時間になると、食堂に入りきらないぐらいの人でにぎわう。当然、お昼を食べそこなう人も出てくる。そういう人は、お腹がすくと、夕方4時頃、10分間の休憩時間にトイレにこっそり隠れてインスタントラーメンを食べる。
 休憩時間なので、食べそこねた食事を取るのはいい。だがここから先がよくない。食べ残しをトイレにそのまま流してしまう人がいる。中国は日本ほど配管の設備がよくない。このため、インスタントラーメンの食べ残しをトイレに流してしまうと、配管が詰まって壊れてしまうのだ。
 当事者にそのことを注意しても、「そんなこと(トイレでラーメンを食べるな)は、契約書に書いてない。食べないと仕事がはかどらない!」と逆切れされてしまう。何か問題を起しても「契約書に書いていない」と突っぱねてくる。
 ほかにも、工場内で痰(たん)を吐いたり、何も言わずに突然会社を辞めたり、ゴミ捨て場以外にゴミが捨てられていたりと、常識を疑うトラブルが非常に多い。
 これに対処するために、全員分の契約書を書き直すのは大変である。このため、工場内には大きな看板が掲げてある。「痰(たん)を吐くな、吐いたら10元の罰金」「退職するときは1カ月前に報告」、トイレには「ここでインスタントラーメンを食うな」「生ゴミを捨てるな」とある。イラストまでつけて目立つようにしているものもある。
 経営者に話しを聞くと、「突然、何も言わずに明日から来なくなる例が減らず困っている。保証人に電話しても『人材についての保障はしたが、退社したことについては何も保障できない。そもそもそんなこと契約書に書いていない』と言い切られる」という。
 けれども、こんな行為を頭ごなしに非常識だと決め付けるのは早いのかもしれない。例えば、トイレで食事をして、食べ残しをトイレに流す件では、農村地帯に在住している人は下水処理が十分ではなく、食事する場所もトイレの隣であることも多いため、非常識とは言い難い。非常識な行為もその人にとっては常識だったりするからだ。
 常識を共有化するためには、まず書面で常識を明確化させることが大切だ。また、そうしなければいけない理由と、できない場合の罰金も併せて記述する。中国では、罰金まで設ける厳しい規定を定めないと、社員教育はできない。
 悲しいかな日本でもどこかで同じ光景を見た気がする。私が教えているゆとり教育を受けた今の大学生に「授業中は、私語、化粧、携帯電話は厳禁!」といっても、一向に直らない。それこそ、イラストを添えたポスターを貼らないと守ってもらえない。あまりに目に余る行為の場合は、ペナルティーまで用意する必要も出てくる。
 私がキャリアアドバイザーとして指導している企業の新入社員も同じだ。「車では出勤しない」、「茶髪はダメ」「3回以内に電話に出る」「朝は自分から上司にも部下にも挨拶する」と、細かく指導しないと一般的な常識を守れない。
 「基本的に言われたことだけしていればいい。言われないからやらない。余計なことは、やって失敗するぐらいならやらない方がいい」という新人さえいる。
 日本でもそのうち、新入社員に常識を1つずつ、罰金とともに契約書を書かせる時代がくるのではないかと不安に思う。